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東京高等裁判所 昭和47年(行ケ)47号 判決 1975年12月24日

原告 小島利行

被告 )高等海難審判庁長官

訴訟代理人 横山茂晴 ほか三名

加藤恵美夫 ほか一名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟の総費用は原告の負担とする。

事  実 <省略>

理由

(海難審判法第一六条第四項違反の主張について)

<証拠省略>によれば、第一審理事官は、神戸地方海難審判庁に本件海難審判開始の申立をするに当り、参審員の参加を書面により請求し、同審判庁は、参審員二名の参加を得て審判を行なつたが、その第二審である高等海難審判庁は、参審員を参加させることなく審理裁決をしたことが認められる。

ところで、参審員は、海難の原因の探究が特に困難な事件の審判に参加するものとされるが(法第一四条第二項)、右参加の手続は、各海難審判庁において、事件の審判が参審員の参加を必要とすると認めた場合、理事官の意見を聴き決定を以て参加させる(法第一六条第四項、同法施行規則第四八条第一項)こととし、審判を行なう合議体の構成員となる参審員の指定は事件の性質及び参審員の知識又は経験並びに執務の順序を勘案して、各海難審判庁の長がこれを行なうのである(海難審判庁事務章程第一一条)。

したがつて、参審員を事件の審判に参加させるか否かの決定は、もつぱら各海難審判庁の裁量に委ねられているのであり、理事官が審判開始申立の際にする参審員参加の請求(同法施行規則第二九条)は、各海難審判庁の職権発動を促すにすぎないものというべく、また、本件裁決を正当とする後記認定に照らしても、高等海難審判庁が本件審判に当り参審員を参加させなかつたことに裁量権の濫用があつたものとは認められない。

よつて、同審判庁が参審員を参加させなかつたことが法第一六条第四項の規定に違反するとの原告の主張は、採用できない。(裁決の事実認定の当否について)

次に、原告は、本件裁決が、甲〔編注:りつちもんど丸〕乙〔編注:ときわ丸〕両船の航法関係、衝突の原因及び原告の救助措置等につきそれぞれ認定を誤つた違法がある旨主張するので、以下これらの点につき検討する。

一  甲船の進路

甲船が、昭和三八年二月二六日午前〇時三〇分(以下同日に関する限り、単に時間のみを表示する。)船長である原告の指揮の下に神戸港を発し、一六〇度ばかりの針路で第一関門を通過した後、機関用意を解除し、友ヶ島水道に向つたこと、原告は、甲船の進行中、左舷船首方向一海里半ばかりの所に一船の白緑各一燈を認め、その後同船を避けるため右転したこと、甲船の右転中その船首が乙船の右舷後部に衝突して乙船が沈没し、甲船が損傷を受け、乙船の乗客及び乗組員が死傷したことは、いずれも当事者間に争いがない。

そこで、甲船の進路を認定するにつき重要と思われる左記争点に関し、順次判断する。

(一)  コースレコードの時刻差

(1) 甲船のコースレコーダーによる前記出港後の記録紙(コースレコード)に関し、原告は、コースレコード上の時刻が船橋の時計による正確な時刻よりも約一五分進んでいると主張するが、これに対し、被告は、一七分進みであると主張する。そして、右争点は、甲船の進路を認定するにつき重要な資料となるものであるから、この点を解明する必要がある。

<証拠省略>によれば、右コースレコード上の記録に基づく始動から停止までの船首方位の概要と時刻との関係は、別表記載のとおりであることが認められる。なお、<証拠省略>に弁論の全趣旨を総合すれば、右コースレコードは、能丸三等航海士により一度に相当する目盛幅だけ右方に片寄り装着されていたことが認められ、この認定に反する証拠はない。したがつて、右コースレコードにおける第一、第三象限上の度数より各一度を減じ、第二、第四象限上の度数に各一度を加えたものが正しい方位であり、これを別表中「記録紙のずれに対する修正」欄に記載した。以下角度を表示する場合、特に断らない時は右修正値によるものである。

(2) 甲船の離岸時刻が〇時三〇分であることは、前記争いのないところであり、<証拠省略>によれば、甲船の甲板部ベルブツクには、「〇時三一分主機を後進微速に始動」との記載があり、機関部ベルブツクには、〇時三〇分に同様の記載があること、当時機関部の時針は船橋及び甲板部の時針よりも一分遅れていたため、両ベルブツクの記載内容に前記一分の差が生じたものであることが認められ、この認定に反する証拠はない。

ところで、別表によると、コースレコード上〇時四七分に船首が左転を始めているのであるから、両ベルブツクの前記記載どおり〇時三一分に主機後進を始動し、その効果が〇時三二分に現れて船首が左転し始めたものとすれば、コースレコードの時刻差は、一五分進みと考えられる。

しかし、<証拠省略>には、発航前に曳船を右舷船尾に取り付けた旨の記載があり、<証拠省略>によれば、原告は、甲船の左舷を横付けにし、右舷錨鎖のたるみをとらせ、船首の係留索二本を第三突堤のM岸壁につないだ状態で、曳船を用い右舷後方に引かせ、その後、船首の保留索二本を離して錨を巻き、曳船を用い右回頭しながら後退した上、始めて後進微速を命じたことが認められる(<証拠省略>によれば、M岸壁の岸線方位は約三五三度であり、甲船の保留船首方向は別表のとおり三五五度であるから、二度ばかり船尾が岸壁に寄せられていたこととなるが、このような状態での離岸方法としては、船のプロペラを損傷しないよう、まず船尾を岸壁から離した後主機を使用するのが船舶運用の基本であり、原告が行なつた前記離岸方法も、この基本にかなうものである。)。右認定によると、甲船は、離岸と同時に船首が左転を始めることとなるから、この場合には、別表の記載上明らかなとおり、コースレコードの時刻差は、一七分進みとなる。

(3) 甲船が第一関門を一六〇度ばかりの針路で通過したことは、前記争いのないところであり、別表によれば、コースレコード上一時一一分の定針時がこれに該当する。

ところで、<証拠省略>によれば、甲船の甲板部ベルブツク及び原告作成の昭和三八年二月二七日附衝突事件報告書の各記載からも、原告、青野二等航海士能丸三等航海士の各供述からも、第一関門の通過時刻は〇時五四分であることが認められるのであつて、この認定を覆えすに足りる証拠は存しない。そうすると、コースレコードの時刻差は、一七分進みとなる。

(4) <証拠省略>によれば、当時甲船の使用した海図第一〇六号上和田岬燈台からほぼ一五四度二一〇〇メートルばかりの所に船位マークが記入され、その右方に「〇一〇〇」の記載があること、これは、能丸三等航海士か、午前一時少し前船首方向が二〇七度に定まつた時、和田岬燈台と神戸港第二防波堤南燈台との交差方位法により測定記入したものであることが認められ、この認定に反する証拠はない。

原告は、右船位の記載に相当の誤差がある旨主張するけれども、<証拠省略>によれば、能丸航海士は、神戸商船大学を卒業し、事故当時には約一年八箇月の乗船経験があり、甲種一等航海士の免状を受有していたこと、前記船位の測定に当つては、右ウイング(張り出し甲板)のレピーターコンパスを使用し、方位を誤測し易いような特別の事情はなかつたこと、前記測定目標は、いずれも、かなりの交角を持つた比較的近距離の顕著な物標であること、同人は、船位を測定記入した直後、レーダーにより第一関門の方位と距離とを求め、右測定がほとんど違つていないことを確かめ、原告も右測定船位を確認していることがそれぞれ認められるのであつて、これらの事実を総合すれば、測定方法が二物標交差方位法であり、また使用海図が、一三万五〇〇〇分の一という小縮尺である上、大阪湾及び播磨灘を含む広区域のものであることを考慮しても、前記測定船位を確度の高いものと認定するのが相当である。<証拠省略>中この認定に反する部分は、前記証拠と対比すると措信し難い。

ところで、午前一時少し前の右測定船位を基準とし、同時刻から〇時五四分までにおけるコースレコード上の船首方向の変化及びその間における同船の速度の変化(<証拠省略>によれば、原告は、〇時五四分第一関門の通過時点において港内全速力約一四ノツトとし、〇時五六分機関用意を解除したが、前路に機附帆船らしい船の紅燈を認めたため、同時五七分ごろ一たん二一〇度の針路とし、一時少し前針路を二〇七度に定め航海全速力約一七ノツトとしたことが認められるので、右速度を、〇時五四分以降〇時五七分までは毎分四〇〇メートル、〇時五七分から〇時五八分までは四五〇メートル、〇時五八分から〇時五九分までは五〇〇メートル、〇時五九分から一時少し前までは四〇〇メートルと推定する。)に従い海図上同船の進路を逆に求めると、コースレコードの時刻差を一五分進みとした場合には、第一防波堤を突破して来たこととなるが、右時刻差を一七分進みとするならば、第一関門の中央を通過したこととなる。なお、本件差戻後の第九回口頭弁論期日(昭和四九年八月二八日)において原告訴訟代理人が主張した甲船の推定進路中午前一時の船位を基準とし、前同様コースレコード上の船首方向及び速度の変化に従い甲船の進路を海図上逆算すると、コースレコードの時刻差を一五分進みとする限り、右進路は、やはり第一防波堤を突破する。

(5) 以上(1)ないし(4)の認定事実を総合すると、コースレコードの時刻差は、被告主張のとおり一七分進みと認められる。なお、<証拠省略>によれば、コースレコード上本件コース記録の開始部分附近に「一五分間進み」「誠AOnO2/0」の記載があり、これは、午前八時ごろ二等航海士青野誠一が、能丸航海士にコースレコードの時刻差を確かめた上これを取り外すように命じ、能丸の報告に基づき青野が記載したものであることが認められるけれども、コースレコードの時間目盛は、一枠の間隔六・五ミリメートルを一〇分とし、これを目分量で読み取るのであるから、一、二分の読み違いは生じ得るものというべく、記録紙取り外しの際の正確な時刻が何時何分であつたか、また、能丸が、右報告の際コースレコード上の記録終了時(<証拠省略>によると、八時一七分くらいと読める。)を何分と読み取つたものであるかについては、何らの証拠もなく、<証拠省略>によれば、記録紙の取り外しは、海上保安官その他第三者の立会いなくして行なわれたことが認められる(<証拠省略>中この認定に反する部分は、右証言と対比して措信しない。)から、コースレコードの前記記載は、コースレコードの時刻差が一七分進みであるとする前認定の妨げとはなり得ない。<証拠省略>中右認定に反する部分は、<証拠省略>と対比して措信し難く、他に同認定を覆えすに足りる的確な証拠は存しない。

(二)  衝突直前の右転模様

甲船が他船を避けるために右回頭中乙船と衝突したことは、当事者間に争いがなく、衝突直前における甲船の右転模様は、後記三(二)のとおり、一時四分ごろから約二分間に及ぶ九〇 度ばかりの大角度であることが認められる。

(三)  前記(一)の認定に従いコースレコードの時刻差を一七分進みとして、別表の船首方向を読み取り、これに(二)の右転模様及び<証拠省略>を合わせ考えると、甲船の進路については次のとおり認めることができる。

甲船は、〇時五四分ごろ一六〇度ばかりの針路で第一関門のほぼ中央を通過し、約一四ノツトの港内全速力としたが、一時少し前和田岬燈台から一五四度二一〇〇メートルばかりの所で針路を二〇七度に定め、約一七ノツトの全速力で進行した。原告は、同時二分ごろ左舷船首約二二度一海里半ばかりの所に一機附帆船の白緑二燈を認めたが、同船において甲船の進路を避けるものと考え続航中、後記三(二)のとおり、同時四分ごろから約二分間にわたり九〇度ばかり右転して乙船と衝突した。

二  乙船の進路

(一)  コンパスの自差

<証拠省略>によれば、乙船は、鳴門・阪神間の定期貨客船で、本件海難発生の前夜午後八時一〇分鳴門港から神戸港に向け発進し、同一〇時四五分ごろ由良瀬戸のほぼ中央を通過したこと、その後同船は、北東微北の針路をとり、約八・五ノツトの速度で進行したこと、当時乙船は、北東微北の針路において一度ないし二度の偏西自差があつたことが認められる。

仮に、右自差を二度西とした場合、<証拠省略>によれば、大阪湾中央部における当時の偏差は五度五〇分西であることが認められるので、乙船の羅針儀違差は七度五〇分西となるから、同船が磁針路北東微北の時の真針路は二五度五五分となる。そこで、右海図上由良瀬戸の中央から二五度五五分の直線を画けば、被告張主の衝突地点を通過し、その延長は第一防波堤のほば中央(後記(三)で認定する乙船の向首方向)に向う。ところで、<証拠省略>によれば、大阪湾中央部の偏差は、友ケ島南方のそれに比し〇・八度ばかり西偏していることが認められるから、磁気コンパスを使用して航行する限り、同一針路を保持していても、北上中の航跡は極めて僅かながら弓型を画いて西偏することとなる。したがつて、乙船の自差が二度以下であつても、被告主張の衝突地点に到達するという結果になる。

(二)  日海丸との航過

<証拠省略>によれば、乙船の僚船である日海丸は、本件海難発生の前夜一一時三〇分に神戸港を発航して第二関門を通過し、自差のないコンパスで南西微南四分の一南の磁針路をもつて約八ノツトの速度で進行中、翌二六日午前〇時三五分ごろ自船とほぼ裏針路で大阪湾内を北上する乙船と二-三〇〇メートルを隔て左舷側に対して航過したことが認められる。

右航過模様は、被告主張の乙船の進路と符合する。

(三)  右(一)(二)の認定事実に<証拠省略>を総合すれば、乙船の航海士太居一男(乙種二等航海士免状受有)は、前記由良瀬戸のほぼ中央を通過後当直を引き継ぎ、一ないし二度の偏西自差を含むほぼ北東微北の針路をとり、三原甲板員と一〇分ないし一五分ごとに操舵を交替しながら、風潮の影響を受けることなく(海難発生当時の天候は半晴で、月明りはなく、北東の至軽風が吹き、下げ潮の末期で衝突地点附近では微弱な北西流があつた。)約八・五ノツトの速力で同一針路を保持し、神戸港第一防波堤のほぼ中央に向首して進行したものと認められる。<証拠省略>のうち右認定に反する部分は、前記証拠と対比して措信しない。

(四)  甲船を認めた後の乙船の行動

<証拠省略>によれば、三原甲板員は、午前〇時五五分ごろ太居航海士に前記針路を引き継いで操舵を譲り、船橋の右舷側にある重油ストーブ前の椅子に腰をかけて見張に当つていたこと、三原は、午前一時五分ごろ右舷船首約四点九〇〇メートルばかりの所に甲船の白白紅三燈を認め、その旨を太居に報告したが燈火の模様から一〇〇〇トン位の小型鋼船であると考え、その速力も早くないように見えたので、乙船が先に航過できるものと判断したこと、太居も、両船が無事に航過できると考えたらしく、右報告に対しうなずいたのみであり、同時六分ごろ甲船の短音一声と同時に三原に対し投光器の点滅を命じ、三原が右点滅中両船が急速に接近したこと、そこで、太居は、ろうばいした声で「かわるか。かわるか。」と叫びながら左舵を取つたが、ほぼ原針路全速力のまま甲船と衝突したことが認められる。

右認定事実に、甲船が衝突前約二分間にわたり大角度の右転をしたとの前記一(二)の認定を総合するならば、太居は甲船を初認した当初においては無事に航過できるものと安心していたが、甲船が右転を始めてその方位が変らなくなつたため、その行動に疑惑を持ちながら同一針路を保持して進行し、衝突直前になつて危険を感じたものと認められる。

三  衝突の地点及び状況

(一)  コースレコード上の衝突地点

コースレコードの検証結果によれば、右コースレコード上の時刻一時二一分ごろに甲船の右回頭が始まり、一時二一分半(コースレコード上の船首角度二二七度。なお、コースレコードの時刻差を一五分進みとした場合の一時六分半に該る。)、一時二三分半(同二九二度)、一時二四分半(同二九七度)の三箇所にコース線の乱れ(異常点)が現れていることが認められ(別表参照)、甲船が他船を避けるため右回頭中乙船に衝突したことは、前記争いのないところである。

原告は、<証拠省略>において、右回頭の開始は衝突前の三〇秒ないし四〇秒であり、コースレコード上一時二一分半船首方向二二七度の所にある異常点が衝突地点を示している(すなわち、回頭角度は約二〇度となる。)旨供述するが、これに対し、被告は、甲船が衝突の約二分前から右転し、原針路から九〇度近く回頭して、コースレコード上一時二三分半船首方向二九二度の所の異常点あたりで衝突している旨主張する。そして、<証拠省略>によれば、前記二二七度の異常点が衝突地点であるというのであるが、これに対し、<証拠省略>は、前記二九二度の異常点を衝突地点とする。また、<証拠省略>は、前記三箇所の各異常点をコースレコーダーに強い衝撃があつたことによるものとしているが、そのいずれが衝突地点であるかは明らかにしていない。

しかし、<証拠省略>によれば、コースレコーダーの使用目的は、船の進路を記録することにあり、通常、角度で一度、時間で一分までの変化を知る用途で製作されていること、すなわち、その構造は、時計装置により記録紙が繰り出されて時刻変化を示し、六分の一度ごとにステツプモーターにより角度の変化を伝え、記録ペンは小さなスプリングにより記録紙に圧着されて走行するのであるが、記録紙における時刻の一目盛(六・五ミリメートル)は一〇分を表わし、記録ペンの幅は約〇・二ミリメートル(時刻目盛では約一八秒に相当する。)であり、繰り出し装置の歯車やピンに遊び(ガタ)があつて、精密機械とは言い難く、また、記録紙の乾湿による伸縮や記録紙繰り出し中における用紙の引きつりも有り得るので、このようなコースレコードから秒単位で微小な角度の変化を読み取るのはおよそ困難であること、本件コース記録中には前記三箇所以外にもコースレコーダーの機構上の原因により生じたものと思われるペンの乱れが数箇所存在することが認められるのであつて、右認定事実を総合すれば、コースレコードのみから本件衝突地点を求めるのは相当でないものというべきである。このことは、コースレコードの衝突地点に関する鑑定結果が前記のとおり相違している事実(なお、<証拠省略>は、両船の質量の差が大きいため、衝突の衝撃による甲船の回頭速度の変化が極めて微少であるから、この程度の変化ではコースレコード上に現れないと証言している。)からも裏付けられると言い得よう。

したがつて、衝突地点を認定するためには、他の証拠を検討する必要がある。

(二)  甲船の衝突直前における右転模様

(1) <証拠省略>によれば、衝突時刻は午前一時六分半ごろと認められるから、衝突時におけるコースレコード上の甲船の船首方向は、別表記載のとおり二九二度(時刻差は一七分進み)であり、甲船は、衝突の約二分前から九〇度近く回頭したこととなる。

(2) <証拠省略>には、甲船が衝突二分前に右舵をとつたこと及び衝突推測地点は北緯三四度三六分八秒、東経一三五度一〇分六秒である旨記載されているが、右地点は、乙船の沈没地点(後記(三)(1))に近い。

(3) <証拠省略>によれば、甲船が海上保安部へ打電し直した衝突地点は、和田岬燈台から一九九度二・三海里となつているが、これも沈没地点に近い所となつている。

(4) <証拠省略>によれば、甲船の当直機関士である森惇は、理事官の質問に対し、機関停止の一、二分前に機関の回転数が二、三回落ちたので、変針したことが判り舵角指示器を見たら右舵一杯に取り切つていた旨供述しているが、同供述によれば、衝突直前に右回頭が始まつたものではないことが窺われる。

(5) <証拠省略>によれば、原告は、理事官の質問に対し、衝突地点は前記(2)のとおりであること及び四点(四五度)ぐらい右転して衝突した旨述べており、<証拠省略>によれば、当時における甲船の操舵員武本雅晴も、理事官の質問に対し、衝突までに四点前後右転したと思う旨供述している。

(6) 以上(1)ないし(5)の諸点に前記一の甲船の原進路を総合すれば、衝突直前における甲船の右回頭は、原告の前記(一)の供述のような短時間小角度のものではなく、被告が主張するように、約二分間にわたる九〇度ばかりの大角度であつたと認めるのが相当である。

<証拠省略>中この認定に反する部分は措信し難く、他に同認定を左右するに足りる的確な証拠は存しない。

(三)  乙船の衝突後における惰航模様

(1) <証拠省略>によれば、乙船の沈没地点は、和田岬燈台から一九六度半四三〇〇メートル附近であることが認められる。<証拠省略>によれば、右沈没地点は、和田岬燈台から南微西四分の三西四三八〇メートルというのであり、前記沈没地点と少しく異なるが、上記各証拠によりその測定方法を比較検討すると前者の方がより正確なものと認められ、他に前認定を動かすに足りる証拠はない。

原告は、乙船が和田岬燈台から一八七度四三〇〇メートルばかりの所で衝突した後、甲船の力学的拘束を受けて同地点から二七七度の方向に約七〇〇メートル後向きに惰航して沈没した旨主張し、被告は、右燈台から一九六度四三〇〇メートルばかりの所で衝突し、同所から約五〇メートル西方の地点で沈没した旨主張する。

そこで、乙船の衝突沈没後までの状況につき検討すると、<証拠省略>によれば、甲船の船首は、乙船の右舷船尾から四メートルばかり前方の所に直角に近い角度で衝突し、乙船の船尾を左方に、船首を右方に突き廻したこと、乙船は、右船尾部を圧壊されその大部分が破断されて機関が瞬時に停止し、船尾から浸水して左舷に傾斜するとともに船首が持ち上り、破断された船尾部分が海中に垂れ下つた状態で、衝突後二-三分にして着底(乙船の長さは四〇メートル余り、水深は約一六メートルである。)し、衝突後七分位で没沈したこと、乙船は衝突後間もなく行き足がほとんどなくなり、海中に落下した乙船の救命いかだ、木箱などの浮遊物は、沈没間際まで同船の近くに漂つていたことが認められ、当時風潮が微弱であつたことは、前に認定したところである。

これらの認定事実に、<証拠省略>を総合すれば、乙船は、衝突によつて前進速力を急速に失い、衝突地点附近(数十メートル以内)で沈没したものと認められる。

(2) これに反し、<証拠省略>によれば、乙船は、甲船によつて船尾方向に後向きの運動量を与えられ、惰力でゆつくり右回頭しながら進行した後沈没したというのであり、また、<証拠省略>によれば、乙船は、甲船の力学的拘束を受け、甲船の前進力に近い後進速力を与えられ、西方に左旋回しながら相当の距離を後進したというのである。

しかし<証拠省略>によれば、<証拠省略>は、甲船が原針路線上近くを進行中すでに左旋回している状態にあつた乙船と衝突したとの事実を前提としていることが認められ、また、<証拠省略>によれば、<証拠省略>も原告主張の衝突模様を前提としていることが認められるのであるが、これらの前提事実が誤つていることは、前記一及び二に認定のとおりである。したがつて、<証拠省略>は、誤つた事実関係を前提としており、右前提事実の誤りは、両船の衝突直前における速力、衝突時における回頭角速度、船体移動等に差異を生ずるものというべく(なお、<証拠省略>は、右鑑定事項からも明らかなとおり、被告主張の衝突模様を前提としている。)、また、前記破損状態にある乙船が後向きで相当距離を惰航したというのも経験則上首肯し難いところであるから、乙船の惰航模様に関する前記両鑑定は採用できない。

(四)  右(二)(三)の認定事実及び前記一、二に認定した甲乙両船の進路に、<証拠省略>を総合すると、本件衝突の状況は、次のとおりであるものと認められる(なお、右衝突模様の概略を図示すれば、別紙図画のとおりである。)。

すなわち、甲乙両船は、互いに右舷を対して無事に航過できる態勢にあつたが、原告も青野航海士も、見張不十分のため乙船の来航に気付かず、原告は、甲船の左舷船首前方に認めた一機附帆船を避けるため、一時四分ごろ長音一回を鳴らし、右舵を命じた。甲船が右回頭を続けているうち、一時六分ごろ原告は、左舷船首に迫つた乙船の白緑二燈を認め、衝突の危険を感じて微速力前進、停止、右舵一杯を令し、短音一回を吹鳴した後全速力後退を命じたが、同時六分半ごろ前記沈没地点附近(和田岬燈台から一九六度四三〇〇メートルばかりの地点)で、原針路から約九〇度右転した甲船の船首が、乙船の右舷側船尾から四メートルばかり前方の所でほぼ直角に衝突した。

<証拠省略>中右認定に反する部分は措信し難く、他に同認定を覆えすに足りる的確な証拠は存しない。

なお、右認定に関し問題になると思われる左記の点につき、さらに説明を加える。

(一)  いわゆる第三船の存在について

原告が、甲船の進行中左舷船首方向一海里半ばかりの所に一船の白緑二燈を認め、同船を避けるために右転中乙船と衝突したことは、前記争いのないところであり、前認定によれば、甲乙両船は互いに右舷を相対して対向していたのであるから、原告が認めた前記二燈は、乙船以外の船の燈火ということとなる。

そこで、第三船が当時附近を航行していたか否かにつき検討する。

(1) <証拠省略>に弁論の全趣旨を総合すれば、本件衝突地点附近の海域は、夜間であつても各方向に大小の船舶が航行する所であること、現に、甲船は、第一関門を通過後友ヶ島水道に向け定針する前、その前路に機附帆船らしい紅燈を認め小角度の針路修正をしていること、甲船の藤原一等航海士は、第一関門を通過後出港部署が解除されて船首を去る時、前方に船の燈火を数箇認めており、同船の青野航海士も、昇橋直後の一時二分ごろ六海里のレンジにしたレーダーを二、三秒のぞいた時、左右前方四、五海里の所に四、五隻の船の映像を見ていることが認められる。

(2) 原告は、<証拠省略>において、相手船の白緑二燈が同じ位の高さであり、その他の燈火は見えなかつたから三〇トン位の機帆船だと思つた旨供述し、また、青野航海士は、<証拠省略>において、右二燈の左右の間隔が非常に狭く、他の燈火が見えなかつたので、小さな機帆船と思つた旨供述している。

しかし、三〇トン位の小型船と二三八トンの乙船とは、マスト燈及び舷燈の明るさ、両燈の上下の間隔、船体上からの高さ等が相当異つていること(海上衝突予防法第二条、第七条参照)及び乙船には両舷に各一〇個ばかりの舷窓が設けられ、本件海難発生の約三〇分前に乙船と航過した日海丸の松浦航海士は、舷窓のほぼ全部から漏れる燈火を見ており、舷窓からの燈火は、甲船が左舷船首方向に認めた船との見合関係(<証拠省略>中に原告の作成図がある。)からすれば、夜間一海里位前方からでも視認できることが、<証拠省略>によつて認められる。したがつて、原告及び青野の認めた前記燈火が乙船のものであるということは、原告が甲種船長の、青野が甲種一等航海士の各免状受有者であることに照らし、首肯し難いところである。

(3) 以上の認定事実によると、原告及び青野が左舷船首方向に認めた白緑各一燈は、乙船以外の第三船の燈火であつたことを否定できないものというべきである。

(二)  甲船レーダー上の映像について

前記(一)(1)に認定のとおり、青野航海士は、一時二分ごろ六海里のレンジに調整したレーダーをのぞいたのであるが、当時における甲船と乙船及び第三船との距離は、いずれも二海里以内であるから、両船の映像がレーダー上に現れているはずである。ところが、<証拠省略>によれば、青野は、レーダーをちよつと見た時、船首方向ではなく前方左右四、五海里の所に四、五隻の船の映像を見ただけであるというのである。

しかし、<証拠省略>によれば、当時甲船船橋前方のデリツクブームは立てたままであり、青野は、自室から暗い船橋に入つた直後、眼の暗順応ができていない状態で、レーダーを二、三秒のぞいた程度であることが認められる。この事実に、<証拠省略>及び弁論の全趣旨により認められる次の事実、すなわち、レーダースコープの輝線上の物標は見分けにくいこと、煙突、マスト等の陰になる物標はレーダーに映らないし、木造小型船(一般に、三〇トン位の機附帆船は木造小型船と見なし得る。)はレーダー上に現れにくいこと等を考え合わせると、乙船は、レーダースコープ上の輝線内に入つていたか、デリツクブームの陰になつていたかして判別できず、第三船は、レーダー上の映像が不鮮明であつたため、眼の暗順応ができていない状態にあつた青野が、両船の映像を見落したものと推認する余地がある。

(四)  衝突の原因と原告の責任

以上認定のとおり、原告は、船長として甲船を運航中、乙船と互いに右舷を対して無事に航過できる態勢にありながら、見張不十分のため乙船の来航に気付かず、第三船を避けようと右転して乙船の前路に進出した結果、乙船と衝突したのであつて、その過失は重いというべきであるが、他方、乙船を操舵していた太居航海士も、接近する甲船の行動に疑惑を感じながら、航過できるものと安易に考えて適切な措置をとらなかつた点に過失があるといわざるを得ない。

五  原告の救助行為

<証拠省略>を総合すれば、衝突後における原告の救助活動及び乙船の加藤船長が船員法第一四条の三の規定による非常配置表の作成と操練とを怠つたことに関し、本件裁決の認定した請求原因四(四)(五)の事実がすべて認められる。<証拠省略>中この認定に反する部分は措信し難く、他に同認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定によれば、乙船を見失つた原告は、速かにレーダー等によりその行方を追跡し、救命炎を投下したりして救助活動に万全を期すべきであつたのに、これを怠つたのであり、また、衝突現場に引き返す措置をとらなかつたことは、明らかに原告の職務上の過失というべく、これが本件海難の一因をなすものと言わざるを得ない。なお、加藤船長についても、船員法による非常配置表を定めず、また操練不十分のため船客の避難誘導に適切な措置をとらなかつた過失が認められるけれども、その程度は、原告の前記過失に比して極めて軽いものというべきである。

(結論)

これを要するに、本件裁決の審判手続に原告が主張するような違法はなく、また、本件海難は、法第二条第一、第二号に該当し、その主たる原因は、甲船の船長である原告の運航及び救助に関する職務上の過失によるものである。したがつて、原告に右過失があるものと認定した上、法第四条第二項、第五条第一項第二号の規定による懲戒として、同人に対し甲種船長の業務を三箇月間停止した本件裁決は、原告の過失内容及び被害の大きさに照らし相当というべきである。

よつて、右裁決の審判手続、事実認定、注意義務の設定等に誤りがあるとしてその取消を求める原告の請求は、すべて理由がないから、これを失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第九六条、第八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡辺一雄 田畑常彦 宍戸清七)

別紙<省略>

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